【プロローグ】モスキートゲート(創作ストーリー)

目次

プロローグ

「早く!立ちなさい!」

あまりの恐怖に少年の思考は停止し、体が硬直していた。隣にいる母親の言葉が脳みそで処理されず、正常に認識できない。

少年の視界に映っているのは、軽自動車ほどはあろうかという巨大な蚊。”蚊”と表現したものの少年の目に映るそれは、通常の蚊とは姿形がかなり異なる。

眼はタイヤように大きく、360度すべてを見渡せるような複眼であることが遠目からでも伺える。

血を吸う口(吻)の部分は、中世の騎士が持っているランスのように鋭く突き出ており、黒光りしてテカテカしている。建物や車のドアを容易く貫いていることから、鋼鉄と比べても遜色がない強度を持っていると推測できた。

それによく見ると、吻の先端に返しのようなものが無数に付いている。獲物に突き刺したときに、簡単には抜けないような仕組みになっているのだろう。

体から伸びている脚も弱々しさは一切ない。1本1本が電柱のように太く、表面は目が粗いノコギリのようにギザギザしている。

羽はトンボのように左右2枚ずつあり、一般的な蚊のように「ぷ~ん」とノロノロ飛んでいるのではなく、急発進・急停止・ホバリングをいとも簡単にこなしている。オニヤンマにように自由自在に飛び回る飛行性能と、目にも留まらぬ凄まじい飛行速度を持ち合わせていた。

すべてが規格外のサイズで、よく見かける小さな蚊とは、完全に別次元の生物。もはや”蚊”と呼んでいいのかも分からない。

軽自動車ほどの巨大な蚊が、チーターよりも速く飛び回り、人間の血を求めて無差別に襲いかかっている。少年の目の前では、そんなあり得ないことが現実に起きている。

あまりに非現実的な光景。だが、蚊から伝わってくる圧倒的な存在感が夢ではないことを雄弁に物語っていた。

人々は助けを求めて必死に逃げ惑うが、人間よりも大きい巨大生物を止められる者は誰もいない。

瞬く間に少年の目に映る人たちが蹂躙されていく。道路を挟んで向かい側の歩道には、ハイヒールで懸命に走る女性の姿があった。カッ!カッ!カッ!とハイヒールが地面を蹴る大きな音が響く。

ハイヒールの音が聞こえてしまったのか、それとも走っている姿が獲物に見えてしまったのか。正確な理由は分からないが、運悪く女性は蚊に見つかってしまった。

瞬間移動でもしてきたかのように、蚊が女性の前に現れる。女性は急停止し「ひっ!」と悲鳴を上げるが、あまりの恐怖から、それ以上声を発することができない。

そして巨大な蚊は、人の手では払い除けるのが不可能と思える重量感のある脚を2本使い、女性を抑え込む。女性はバタバタと懸命にもがくが、ビクともしない。次の瞬間、蚊の吻が女性の体に突き刺さる。

蚊が吻を刺すスピードは、一瞬すぎて目で捉えることもできなかった。仮に体を抑え込まれていないとしても、普通の人であれば、反応すらできずに刺されてしまうだろう。

巨大な蚊の吻に刺された女性は「へぎょっ」と奇妙な声をあげると、みるみるうちにミイラのような体になり、あっという間に体中の血液を吸い上げられてしまった。それだけではなく、体中の水分という水分が余すところなく蚊によって吸われてしまったのだと理解できた。

女性が蚊に見つかったであろう時間から、ほんの数秒の出来事であった。

さっきまで勢いよく歩いていた美しい女性の姿は、もうそこにはない。蚊に全ての体液を吸われてしまった亡骸が転がっているだけだ。目の前に広がる光景は、年端も行かぬ少年にとってはあまりにショッキングで、到底受け入れられるものではなかった。

すぐそばにいるはずの母親の叫び声が、なぜか遠くから聞こえてくるような妙な錯覚に陥ってしまう。その場から離れたいと思っても、少年は足に力を入れることができず、立ち上がることすらできない。

さっきまで女性の血を吸っていた巨大な蚊は、まだ足りないといわんばかりの雰囲気で次の獲物を物色し始めた。

ふと、少年はその蚊と目が合ったような感覚に陥る。頭ではなく本能が察した。「次は自分の番だ」と。

少年が死を予感した瞬間、

「バチン!!」

少年の頬に衝撃が走る。母からの強烈な平手打ち。

「立ちなさい!!」

一瞬、何が起こったのか分からなかったが、ジンジンと残る頬の痛みのおかげでハッと我に返った。

母に手を引かれ、少年とその妹はその場から立ち去るべく走り出す。今までに見たことのない母の表情から、いかに事態が逼迫しているのかが伝わってきた。

至るところから聞こえてくる悲鳴で、あちこちに蚊が現れているのだと嫌でも伝わってくる。それは希望を打ち砕く合図のようだった。

幼い子ども二人を連れて逃げる母親。二人を抱えて走るほどの筋力も体力もない母親は、懸命に二人の手を引いて走る。ただ、幼い子どもが全力で走ったとしても、移動速度はたかが知れている。

母親は、このまま走っても逃げ切れないと悟り、物陰に隠れてやり過ごすことを選んだ。母親と子供2人は、路地裏に入りビルとビルの隙間に身を潜める。

あれだけ大きな蚊なのだから、狭いところには入ってこれないかもしれない。それに蚊は動いている人たちを追っていたから、ジッとしていれば気づかずに去っていく可能性だってある。

母親は、そんな淡い希望を抱いていた。いや、希望というより祈りに近い感覚だったのかもしれない。そこには「神様、お願いですから子供たちだけでもお助けください」と強く願う母の姿があった。

その様子を見て少年は、不安そうな表情でギュッと母親の腕にしがみついた。妹もそれに続き、母親に強くしがみつく。子供たちの様子を見て、母親はふと我に返った。

今、ほかに頼れる人はいない。私がしっかりしなきゃ。絶対に二人を守ってみせる。母親の目に力強いものが宿る。

幼い子供たちの泣きそうな顔を見て、母親は優しく語りかけた。

「大丈夫よ。きっと助けがくる。それまで、ここに隠れていようね。ここなら、あの大きな蚊にも見つからないから」

まるで自らに言い聞かせるような言葉だった。そして、ゆっくりと次の言葉を伝えた。

「大丈夫よ、悟(さとる)。あなたは強い子だもの。もし私に何かあったら、あなたが綾(あや)を守るのよ」

「そんなこと言わないでよ」

少年は、今にも泣き出しそうな震えた声を絞り出した。

「うん、そうだね。ごめんね。お母さんが絶対に二人を守るから。大丈夫だからね」

母親は二人をそっと抱きしめた。

これが子供たちと言葉を交わす最後の時間になるかもしれない。母親はまとわりつく嫌な直感を理性で振り払いながら、助かる方法を探し始めた。

蚊は人の気配を察知して動いているようだった。だから人通りが多いところよりも、人気のないところのほうが安全だと思い、とっさに路地裏に逃げ込んだ。

さっきいた大通りのほうから、今も悲鳴が聞こえてくることから、この判断は間違っていないはず。ただ、ここがいつまでも安全であるという保障はどこにもない。あくまでも”さっきいた大通りよりも安全”というだけだ。

警察や自衛隊の助けがくるまで、より安全な場所に移動するべきだ。では、どこに行けばいいのか。

真っ先に思いつくのは、どこかのビルに逃げ込むこと。さすがに、あの巨大な蚊では、狭いビルの中まで入るのは難しいはずだ。いや、もしかしたら入れるかもしれないけど、そんなことを考えだしたら希望はゼロだ。そうであってくれないと困る。

でも、誰でも逃げ込めるような大きなビルは避けたい。入り口も大きいだろうし、蚊も侵入しやすいはずだ。逆にボロボロすぎるビルも避けたほうがいいだろう。ある程度の強度がなければ、ビルごと破壊されてしまうかもしれない。

大きさはそれなりだけど、入り口が小さくて古くない頑丈なビルに逃げ込むのが望ましい。

母親は、生きるために懸命に頭を働かせた。

今いるところから、該当するようなビルの入り口は見つからない。移動して避難場所を探すべきだが、母親はどの方角に移動すればいいのか思考を巡らせる。

母親は、できる限り大通りを避けるようにして、小道を移動しながらビルの入り口を探すことにした。子供たちに「声を出さずに静かについてくるのよ」と言い、物音を出さないように静かに移動を始めた。

見渡すと、そこら中にビルはあるのに、条件に合うビルの入り口を見つけられない。適当なビルに逃げ込みたい衝動に駆られるが、遠目から飛び込んできた大通りの様子を見て、その衝動をグッと抑え込んだ。

人が多い大通りでは、入りやすそうな大きなビルに逃げ込んでいる人が沢山いる。ビルに避難した人たちに吸い寄せられるように蚊が襲いかかっている。そんなことが、あちこちのビルで起こっていた。

まだビルの中までは侵入していないようだが、いつまで持ちこたえられるか分からない。

ここで判断を誤ったら子供たちが死ぬ。母親は、一切の妥協を許されない状況だと再認識した。

時間にして数分ほどだろう。親子が移動をしていると、

「ガチャ」

物音が聞こえた。背筋に冷たいものが走る。死が隣り合わせの状況では、ちょっとした物音にも敏感に反応してしまう。

音がしたほうを見ると、少し先にあるビルの裏口が開いている。警備員らしき男性が、まるでドロボウのようにゆっくりとドアを開けて、外の様子を伺っていた。母親たちから見ると、なんとも奇妙な光景である。

中でじっとしていれば安全なのに、わざわざ危険を犯して外の様子を伺うなんて。ただ、これは母親たちにとっては僥倖だった。

「ビルの中に入れる」

全員の心に希望の光が灯る。警備員も母親たちの存在に気づいたようだ。

母親たちが警備員のところに向かおうとすると、雰囲気を察したのか、警備員はビルの中に招き入れるような素振りを見せた。母親たちに安堵の気持ちがこみ上げてくる。

しかし、大きな爆発音と共に状況が一変する。すぐ隣のビルの屋上から火の手が上がり、無数の瓦礫が母親たちに降り注ぐ。

生まれて初めて上空から降り注いでくる無数の礫(つぶて)。遠くにあるときはゆっくり落ちてくるように見えるのに、近づくにつれて猛スピードで迫ってくる。

反射的に母親は、子供たちに瓦礫が当たらないように身を挺して庇う。

幸い下敷きにはならなかったが、肉と骨がグシャリと潰れるような嫌な音がした。子供たちを庇った母親の脚に、瓦礫のひとつが直撃してしまう。

あまりの痛みに、母親はその場にへたり込む。屈強な男であっても叫び声を上げてしまうような痛みにもかかわらず、蚊に見つからないようにするために、母親は懸命に声を押し殺す。全ては子供たちの安全のために。

その母親の様子を見て、警備員の男は「大丈夫か」と声をかけそうになるのを思い止まった。

子供たち二人が泣きわめきそうになるが、母親がとっさに「大丈夫だから、ね」と優しい声をかける。母親なりに精一杯声を振り絞ったが、かろうじて聞き取れるくらいの微弱な声しか出すことができない。

気丈に振る舞っている母親を見て、子供たちは「自分たちが騒いではいけない」と察して、ピタリと声を出すのをやめた。

「早くここから離れなきゃ」

幼い少年とその妹は顔を見合わせて、母親を担いで運ぼうとする。…が、幼い子供の力では持ち上げることもできない。泣きそうになるのを必死に堪えながら、懸命に力を込めるが、母親を動かすには程遠かった。

見かねた警備員の男が母親のもとに駆け寄り、母親に肩を貸す。警備員の男も力自慢ではなかったが、なんとか母親を立たせることができた。

片足は完全に使い物にならない状態だが、母親はなんとか立ち上がり、警備員と子供たちの力を借りて歩き出す。ビルの中に入れたら、生存率が跳ね上がるはず。その希望にすがるかのようにビルを目指した。

しかし、ここでも悲劇が起こる。

「蚊だ…」

警備員の男がぼそっとつぶやく。その言葉を聞き、全員が数十メートル離れた位置にいる蚊を視認した。ホバリングして、空中でじっとしている。蚊は母親たちに気づいていないのか、別のほうを見ているようだ。

その場にいる全員に同じ考えがよぎる。

「見つかったらおしまいだ」

ビルの裏口にたどり着く前に見つかってしまったら、誰かの死が確定する。1人が襲われている間に3人は生き延びられるかもしれないが、1人には確実な死が待っている。しかも、無惨に体中の体液を吸われてしまうという極悪なオマケ付きだ。

悠長にしている暇はない。4人は再びビルの裏口を目指した。

母親は、少し動いただけでも激痛で意識が飛びそうになるが、それを懸命にこらえ歩みを進める。しかし、どうしてもスピードは上がらない。普通に歩くよりもずっと遅い速度でズルズルと這うように動くのが精一杯だった。

それでも、裏口までの距離は遠くない。このまま行けばたどり着ける。

「もう少し」

全員に安堵の気持ちが出始めた瞬間、少年が先ほどの蚊に視線を送る。その瞬間、少年の背筋にゾクッと冷たいものが走った。

蚊がこちらを見ている。

基本的に、タイヤサイズの大きな複眼を持つ蚊であれば、360度ほぼ視界に入っているはずである。それでも、さっきまではこちらを意識している感じはしなかった。

しかし、少年は確信した。今、蚊は”こちらに意識を向けて見ている”と。獲物かどうかを判断している最中なのだと。理由は説明できないが、少年にはハッキリと感じられた。

少年が「走って!」と声を上げようとした瞬間、蚊がこちらに急接近してきた。

左右に二枚ずつある羽を残像すら残らないほどのスピードで動かし、初速からいきなりトップスピードでこちらに迫ってくる。数秒もかからずに、蚊は襲いかかってくるだろう。

距離的にビルの裏口にギリギリ飛び込めるかどうかの瀬戸際。母親たちは諦めずに歩みを進めるが、すんでのところで間に合わなかった。

蚊は、警備員の男性と母親の目の前でビタッと止まった。

母親が脚にケガを負っていなければ、難なく間に合っていただろう。瓦礫の直撃、そして蚊に見つかってしまうという不運が重なってしまった。

そのとき、少年は感じていた。すでに蚊は自分たちを獲物だと認識している。すぐに襲ってこないのは、どの獲物から捕食するかを悩んでいるだけなのだと。

そして、蚊は自分や妹は眼中になく、母親か警備員のどちらかに狙いを定めていることも理解できた。小さな獲物ではなく、より大きな獲物を仕留めたいということなのだろう。

結果……、蚊が選んだのは母親だった。

弱っている獲物を確実に仕留める。これが捕食者の本能なのだろう。

蚊の吻が無慈悲に母親の胸に突き刺さる。

まるで空き缶でも拾い上げるかのように、母親は蚊によって「ひょい」と、いとも簡単に持ち上げられる。抵抗して吻を抜こうとしても、無数の返しが邪魔をして自らの肉に食い込むだけであった。

「がっ……あぁぁ……」

みるみるうちに母親の体がしおれていく。

その絶望的な光景を目の当たりにした子供たちは、母親を助けようと一心不乱に抵抗しようとする。それを見た警備員の男は、ラグビー選手がタックルをするときの要領で、とっさに子供二人を担ぎ上げた。そして後ろを振り返らず、一目散にビルの裏口を目指して走り出した。

「はなせ!」

二人の子供が暴れるが、警備員の男はガッチリと二人を抱えて離さない。ここで止まれば、自分だけではなく子供たちも死ぬ。

警備員の男はビルの裏口に子供二人を放り込むと、すぐに施錠をし、再び子供二人を担ぎ上げた。そして、蚊が簡単に侵入できないビルの奥に向かった。

「お母さーん!!!」

幼い少年と少女の叫び声がビル中に響き渡っていた。

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