今の状況がこのまま続くとしたら?
「話は変わりますけど…」
井口がゆっくりと口を開いた。
「緒方さんは、これからどうしていくつもりですか?」
「どうしていく……ですか……」
言葉に詰まった。
ただ目の前のことに忙殺されていて、こうして井口さんから質問されるまで考えようともしなかった。そんな状態で質問されても、正直なにも出てこない。
「お恥ずかしいですが、なにも考えていなかったです…」
「では、質問を変えましょうか。緒方さんにとって、どういう状況になるのが理想ですか?」
「そうですね。まず、上司との関係がうまくいくようになる。もしくは、相性の良い上司のところで働く…ですかね」
「仕事内容に不満はない感じでしたか?」
「いえ、今の総務の仕事よりも、広報の仕事のほうが楽しかったです。できれば元の部署に戻りたいですが、それは難しいと思うので、せめて人間関係でストレスを抱えない職場環境になればいいなと」
我ながら小さなことを言っていると思うが、それ以外に思いつくことがなかった。
「いいですね」
「いい……ですか?」
意外な返答だった。ありきたりなことを言っているのに、まさか評価してもらえるなんて思わなかったから。
「自分が求めているゴールを言語化するというのは、非常に大切なことです。何も考えていないと、それすら出てきませんから。緒方さんは、きちんと自分が求めているゴールを言語化できているので、素晴らしいと思いますよ」
そんなふうに受け止めてもらえるとは思えなかったからか、嬉しさからむず痒い感覚になってしまう。
「でも、こうして話を聞いていると本当にもったいない」
「もったいない……ですか。何がでしょうか?」
「緒方さんがくすぶっている状況が、ですよ。未来のある若者がこんなことで消耗してしまうのは、本当にもったいないことだと思っています」
井口さんの言葉に心が踊る。自尊心が満たされた気分になった。
「緒方さん、私たちと一緒にビジネスをしませんか?」
「ビジネス……ですか。それは一体どういう……」
「西田君と一緒に取り組んでいるビジネスがあるんですよ。西田君から話は聞いていませんか?」
「あー、軽く話は聞きました。でも詳しいところは何も…」
「そうでしたか。今回のビジネスの話がどうこうというのは置いておいたとしても、ぜひ緒方さんにおすすめしたいことがあります」」
「なんでしょうか?」
「先ほどもお伝えした、自分で稼ぐ力を身につけることです。自分で稼げるようになれば、上司から多少嫌味を言われても気にならなくなります。いざとなれば会社を辞めても生活に困らないので、精神的に安定します」
「たしかに魅力的だと思いますが、そもそもどうやったら稼ぐ力を身につけられるのか、想像もできないです。自信もありません」
「そこで今回の『一緒にビジネスをしませんか?』という話に繋がってきます。稼ぐ力を身につけるといっても、具体的に何をしたらいいか分かりませんよね。私もそうでした。でも、すでに経験のある人から教えてもらえる環境で、一緒にビジネスをするとしたらどうでしょう?」
「それならうまくいきそうな気がします」
「そうですよね。例えるなら、プロ野球選手が横で付きっきりで指導してくれて、一緒に試合に出てくれるようなものです」
「それはすごいですね。そんなシチュエーション、普通だったらありえないと思ってしまいます」
「普通だったらありえません。でも、私と西田君が取り組んでいるビジネスは、お互いが助け合うことで利益を伸ばしていける仕組みなんです」
今まで自分が経験したことのない世界で、頭がついていかない。でも、井口さんの話に心が踊った。具体的な内容までは分からなくても、希望に満ち溢れた未来がイメージできてワクワクする。
「最初は失敗もするでしょうが、改善を繰り返していけば、徐々に成果が出るようになっていきます。いや、逆に出ないほうがおかしいです。だって、正しいやり方を付きっきりで教えてくれるわけですからね」
井口さんのような人が指導してくれるなら、自分もうまくいきそうな気がしてくる。
「もちろん、どの程度の成果が出るかは人によります。圧倒的に大きな成果を出す人もいれば、そこそこの成果の人もいるでしょう。でも、仮にそこそこの成果だったとしても、人生を変えるきっかけになります」
「そこそこの成果ってどれくらいのイメージですか?」
「そうですね。サラリーマンの平均年収くらいを稼げるような水準がそこそこの成果ですかね」
「サラリーマンの平均年収…ですか。それってすごい成果のように感じてしまいますけど」
「私の感覚ですごい成果というのは、年収が億を超えるレベルです」
「億!?」
基準が全く違った。
「年収億という桁は、ちょっとイメージしづらいかもしれませんね。でも、そこそこの成果でしたら、誰でも達成可能ですよ。現に西田君は、今のビジネスで平均的なサラリーマンの年収くらいは稼いでいます。今はまだ”そこそこ”の成果ですけど、人生が変わる入口まではきています。これからもっと伸びるでしょうから、大成功する可能性も全然あります」
あの西田が大成功するかもしれないと聞くと、なんだか変な気持ちになる。だけど、実際に西田は結果を出している。
平均的なサラリーマンくらいということは、年収400万~500万円くらいは稼いでいるのだろう。
「しかも西田君の場合は、副業でそれだけの金額を稼いでいます。稼いでいる金額でいえば、下手なフリーランスより多いですよ」
そうだった。西田は俺と同じように日中はサラリーマンとして働いているんだった。その分の収入も考えると、同世代と比較してかなり稼いでいるほうだ。
「西田君くらい副業で稼げるようになると、会社を辞めたとしても普通に暮らしていけます。会社を辞めても困らない状態であれば、上司の小言や理不尽なできごとも受け流せるようになるんです。最悪辞めてもいいわけですから。本業のストレスが激減します。日々の安心感や幸福感に大きな差が出ますよ」
もし、そんな状態になれるとしたら、どれだけ素晴らしいだろうか。正直、今の西田の状態が羨ましい。
今まで自分は、収入面を特に気にしたことがなかった。同世代と比較して悪いほうではなかったし、一人暮らしをしていて金銭面で困ることもなかった。
このままコツコツ働いていけばいいと思っていた。しかし、稼ぐ力を身につけることで人生がよりよくなるなら、ぜひその力を手に入れたい。
自分のなかで、今までなかった欲が吹き出してきたのを感じた。
「私からの提案はシンプルです。緒方さんも私たちと一緒にビジネスをして、心の余裕を手に入れませんか?という提案です」
とても魅力的な提案だ。心がグワングワンに揺さぶられる。
「とても魅力的なお話ですが、私にはこれといった才能や能力もありませんし、ビジネスをしても足を引っ張るだけだと思います」
素直な気持ちを伝えた。興味はあるけど、せっかくうまくいっている二人に迷惑をかけるわけにはいかない。
「それは心配いりません。先ほどのプロ野球選手の話と同じですよ。私がうまくいく方法を直接教えますので。最初は失敗すると思いますが、そんなことは大した問題ではありません。うまくいくようになるまで、私は諦めずに指導します。あとは緒方さんが諦めずに付いてこられるかどうかです」
多少のことにはへこたれない自信はあった。でも、今まで経験したことがない未知の領域に足を踏み入れることに恐怖心が出てきてしまっている。今まであまり自覚したことはなかったけど、意外と自分はビビリなんだな。
「今、どんなところが引っかかっていますか?」
こちらの空気を察したのか、井口さんが問いかけてくれた。
「正直にいうと、ビビっています。あまりに知識がなさすぎて……よくわからないことに対して恐怖心があるのだと思います」
「素晴らしいですね」
「えっ……」
井口さんから突然褒められたことで戸惑ってしまった。褒められるようなことは何も言っていないと思うのだが。
「緒方さんのように、素直に自分の恐怖心を認めるのは、なかなかできることではありません。多くの場合、見栄やプライドが邪魔をして本音を言いませんから。誤魔化さずに自分の気持に向き合うこと自体が、実はすごいことなんですよ」
「そういうものですかね」
井口さんにフォローしてもらったことで気持ちが軽くなった。
「でも緒方さんがそれだけ素晴らしい資質をもっているだけに、とても残念にも感じます」
「どういうことでしょうか?」
「たとえばの話ですけど、今のままの状態がこれからもずっと続いていくとしたら、緒方さんはどのように感じますか?」
「すごく嫌ですね。この状況がずっと続いていくとしたら、きっとどこかで心が折れてしまうと思います」
「そうですよね。お話を聞いている限り、このまましんどい状況が続いていくと思います。何かしらの改善策を講じなければ、上司との人間関係が改善されず、ストレスが溜まり続ける日々がこれからも続くということです。緒方さんは長期間に渡って消耗し続けることになります」
井口さんの話を聞いて、それは嫌だなと改めて感じた。想像するだけでネガティブな気持ちになってしまう。
「そうなると将来有望な緒方さんの才能がすり潰されてしまうかもしれません。私には、それが残念でなりません」
「……」
そこまで心配してくれる人が周りにいただろうか。井口さんの親身になってくれる姿勢に心が打たれた。
「ただ黙っているだけでは、状況は良くなりません。現状を変えるためには行動によって変化を起こす必要があります。ガムシャラに行動すれば良いということではなく、正しい方向で努力することが必要です。今の緒方さんにとって、稼ぐ力を身につけることは、確実に良い方向に変化を起こしてくれるはずです」
井口さんの言う通りだと思った。何もせずにいるだけで人生が変わるほど甘くはない。さすがに社会人にもなると、そのくらいは理解できる。
「興味があるなら、やってみませんか?もし、うまくいかなくても誰も責めるようなことはありませんし、良い経験になるはずです」
井口さんの話を聞いて自分が人生の岐路に立たされているのではないかと感じた。
それに、井口さんがここまで言ってくれているのだから、やらないと失礼になるのではないだろうか。
気持ちは完全にやる方向に傾いていた。